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明治の家
この古民家は「明治」の終わりころに建てられた家です。
今が「令和」だからその前の「平成」、の前の「昭和」、の前の「大正」、の前の「明治」の時代。
120年くらい前に建てられたものです。
西暦1900年頃、そう、すごく昔です。
(君が小学生ならお爺さんのお爺さんが生まれた頃かもしれません)
やっと電灯が灯りだし、洗濯機も水洗トイレもなく、お風呂は薪を燃やして沸かし、もちろんスマホはなく、電話機さえ普通の家にはありませんでした。(電話を持ってたのは全国で1万人くらい)
みんな知ってる路面電車もまだなく、鉄道が広島までやっと開通して間もない頃です。
このあたりは見渡すかぎり畑でした。
コラム①
古民家が建てられる少し前、明治27年には山陽鉄道が広島まで開通し、日清戦争が始まり広島城が大本営になり、軍用鉄道(宇品線)もこの年に開通しました。
因みに人力車が登場するのは明治22年、広島~可部間で乗合自動車が運行したのが明治36年、三篠~祇園間に計便鉄道が開通したのが明治42年です。
※「はらだより」抜粋(出典:祇園町誌)
2
郷土自慢の西原にんじん
畑といえば、ここ西原は人参です。
人参は江戸時代から日本に伝わって急速に全国で栽培され、広島藩の書物にも『世に廣島人参と称す』と自慢そうに書き残されています。
それから明治になって地元の研究熱心な農家が赤い金時人参の種を大阪から取り寄せ、品種改良や栽培方法を工夫して近隣で普及させ、その努力の甲斐あって「西原の人参は特に味が良い」と評判になり、最盛期には大阪市場まで貨車を借り切って出荷していたそうです。今でいう広島の「カキ」「お好み焼き」のような人気だったのではないでしょうか。
それにしても昔の人は人参をよく食べていたのですね。
今でも、原小学校の校章には人参の葉と花がデザインされていますし、9丁目の公園(ドン・キホーテの近く)のトイレの壁面タイルには人参が何本も描かれています。
地元の昔を知る人の誇りなんですね。
コラム②
人参の栽培は大変な重労働でした。
種まきは盛夏ですが強い日差しと乾燥に弱いので藁で覆い一か月弱水をやりつづけ、発芽後は夜露にあてるため夕方に藁を取り、朝に覆う作業が続きます。
本葉が出るとする間引き作業は絡み合う葉をしゃがみ込む窮屈な姿勢で神経と体力を奪いました。
収穫は激寒期で積もった雪をかき分け何百本と抜いて、手が切れそうな冷たい川の水で洗い、荷造りしてリヤカーで市場に運ぶのは早朝4時です。
大変な思いをしてつくられブランドにもなった西原人参ですが、一面にあった畑はその後昭和40年代半ばに瞬く間に姿を消していきました。
※原学区社会福祉協議会 社協だより「はら」2021年2月号より
3
江戸の用水路、八木用水
畑に欠かせないものといえば、水です。
広島の水の恵みは、大昔から太田川が運んできてくれていました。
しかし何度も大洪水に遭い、
太田川の本流は川の流れる道筋が幾度も変わっていました。
(現在は戸坂と東原の間ですが、鎌倉時代には安川のほうを流れていたそうです)
このあたり一帯は被害が大きく
特にここ西原は水不足が深刻で、大変苦労していました。
何度も水を通す挑戦をしていたのですが失敗続きでした。
そして今から約250年前(江戸時代の後期)、
祇園で大工をしていた桑原卯之助という人が立ち上がったのです。
卯之助さんは地図を作るための測量や算数が得意で、
この水不足を何とかしようと一年かけて土地の調査をし図面を作りました。
そしてやっとできた用水路の計画に藩の許しが出て
1768年、4月4日に大工事が始まりました。
卯之助さんは西原村民と一緒になって昼も夜も作業を続け
ショベルカーもダンプカーもない時代に
わずか25日間で16kmの八木用水路を完成させたのです。
それから水は流れを止めることなく、
今でも西原の町を巡り潤してくれているのです。
卯之助さんは完成から15年後、60歳で亡くなり、
今は祇園の勝想寺(JR下祗園駅から徒歩5分)に眠っています。
コラム③
八木用水路にはいろんな工夫がありました。
一つにはそれぞれの場所で正確な傾斜角度が作られていました。
それまでうまく水が通らず失敗が続いていたのは、これが原因だったのです。
二つ目は水路の幅が同じでなく広かったり狭かったりしています。
これで下流でも十分に水を行きわたらせることに成功しました。
この他にも土地の高低差を利用したり、粘土や石で水漏れを防いだり、要所要所に堰を作ったおかげで、雨の少ない時期でもほとんど水が干上がることなく現在まで流れ続けています。
今度晴れたお休みの日にはみんなで
卯之助さんになりきって近所に流れる八木用水路を巡るのもいいかも。
※「西原今昔物語」抜粋
4
紡ぎ紡ぐ、天満製糸工場
そしてこの古民家をめぐる歴史の最後は
糸を紡ぐ工場、製糸工場のお話です。
みんなが今着ている服、
シャツやズボンやスカートはほとんど布からできていて、
布はたて糸とよこ糸を織ってできています。
その細~い糸をつくっていたのですが
そんな工場、見たことあります?
そもそも糸って何からできているのでしょう。
まずはその糸のお話から…。
糸の歴史はすごく古くて
今から約一万年前(昔過ぎて想像できません)と言われています。
有名な糸は4つあって
- ・エジプトの麻(植物の茎から採れる)
- ・インドの綿(植物の種子から採れる)
- ・イラン・イラクの羊毛(羊の毛が原料)
- ・中国の絹(カイコ(ガの幼虫)が吐き出す糸(繭))
が四大天然繊維として有名です。
今ではポリエステルやナイロンなど
化学繊維が衣類の半分以上で使われていますが、
最初は植物や動物から採られていたんですね。
もちろん今でもつくり続けられいて
中でも絹(シルク)は繊維の女王とも呼ばれ、多くの人を魅了しています。
日本の歴史を紐解くと
平安時代中期(今から1000年前)の源氏物語で
十二単などきらびやかな絹の衣装をまとった様子が描かれてます。
一般の人たちの衣服は麻などだったようです。
そのずっと前から糸や布をつくる技術は海外から入ってきていたようですね。
そして、ずっと後になって産業革命(約200年前)がおこり、
糸をつくるという大きな産業になりました。
麻や綿や羊毛をつくることを「紡績」
絹の原材料となる生糸をつくることを「製糸業」と言います。
日本では明治になり海外の技術をどんどん取り入れ
大きな工場もできました。
今から約150年前に建てられた
世界遺産にもなった富岡製糸場が有名ですね。
それから先人たちの努力と協力で、
さまざまな苦難を乗り越え
明治の終わり頃(約110年前)には、
ヨーロッパや中国を抜き、世界一の生糸輸出国になりました。
そして、ほぼ同じ頃、
この古民家のすぐ近くに
生糸を作る天満製糸工場が操業を開始しました。
最初は家の裏の小屋で二人の女子工員が手作業していましたが、
日本の製糸業の発展と共に機械化も進み
最盛期には女子工員150人、男子工員20人が働いていました。
昭和4年(約100年前)には大型ボイラーの導入もあり
高さ90尺(約27m、9階建てビルくらい)の
鉄筋コンクリート造りの煙突も建てられました。
ずいぶん遠くからも目立って見えていたようです。
世界に誇る日本の生糸でしたが
昭和16年(約80年前)に始まった太平洋戦争で行き場を失います。
その翌年
従業員や家族、取引先など地域の人に愛され支えられた天満製糸工場は
国に買い上げられその使命を終えます。
それからも、この辺りの古民家は住まいとして建ち続け
その中の一つが、つむぎつむぐとして新たな歴史をスタートさせました。
また地域に愛され支えられるよう
みなさんと一緒に紡いでいきたいと思っています。